2022年04月05日
西行が出身地を隠していたわけ(完結編)
西行は、出家してしばらく、親戚の奥州藤原家で遊んでいた。
その頃、高野山では大変なことが起こっていた。
高野山は、994年の大火事によって約20~50年ほど誰も住んでいなかった。
そこへ現れ、高野山を復興させたのが、竹房出身の明算上人である。

竹房にある明算座像。
明算は白河天皇のバックアップを受け、高野山をほぼ立て直した。
そこへ現れたのが、天才覚鑁であった。覚鑁は鳥羽天皇のバックアップを受け、大伝法院派を起こす。
その後、竹房から明算、良禅、琳賢と3人の検校を輩出する。
しかし、竹房中心の金剛峯寺派と覚鑁中心の大伝法院派の間で、争いが起き流血事件となる。
つまり、金剛峯寺派(白河派)VS大伝法院派(鳥羽派)と言う構図となり、鳥羽に可愛がってもらっていた西行は、高野山にのぼると、同じ竹房出身者中心の金剛峯寺派に属することになり、再び鳥羽に敵対することになりかねないので、すぐに高野山にのぼらず、10年ほどぶらぶらしていたのである。

明算が避寒地として建てた龍蔵院(竹房)
覚鑁が亡くなって、ようやく西行は高野山へ登るが、僧にはならず高野聖のように、庵を構え各地を旅していた。
しかし、元同僚の平清盛が高野山へ日前宮の造営を命じた時に、それを止めさせている。また、焼失した東大寺の再建を源頼朝に進言し、68歳で自からお金を集めに奥州藤原氏を再訪している。
その4年後に「願わくは 花の下にて春死なん その如月の望月の頃」という有名な歌を残して、河内長野の弘川寺で亡くなった。

弘川寺
地元での土地争い、高野山での勢力争いで鳥羽に出身地が知れては、迷惑がかかると最後まで、出自を隠し通した。知らんけど。
日曜日は、粉河チャペルへどうぞ。
その頃、高野山では大変なことが起こっていた。
高野山は、994年の大火事によって約20~50年ほど誰も住んでいなかった。
そこへ現れ、高野山を復興させたのが、竹房出身の明算上人である。
竹房にある明算座像。
明算は白河天皇のバックアップを受け、高野山をほぼ立て直した。
そこへ現れたのが、天才覚鑁であった。覚鑁は鳥羽天皇のバックアップを受け、大伝法院派を起こす。
その後、竹房から明算、良禅、琳賢と3人の検校を輩出する。
しかし、竹房中心の金剛峯寺派と覚鑁中心の大伝法院派の間で、争いが起き流血事件となる。
つまり、金剛峯寺派(白河派)VS大伝法院派(鳥羽派)と言う構図となり、鳥羽に可愛がってもらっていた西行は、高野山にのぼると、同じ竹房出身者中心の金剛峯寺派に属することになり、再び鳥羽に敵対することになりかねないので、すぐに高野山にのぼらず、10年ほどぶらぶらしていたのである。
明算が避寒地として建てた龍蔵院(竹房)
覚鑁が亡くなって、ようやく西行は高野山へ登るが、僧にはならず高野聖のように、庵を構え各地を旅していた。
しかし、元同僚の平清盛が高野山へ日前宮の造営を命じた時に、それを止めさせている。また、焼失した東大寺の再建を源頼朝に進言し、68歳で自からお金を集めに奥州藤原氏を再訪している。
その4年後に「願わくは 花の下にて春死なん その如月の望月の頃」という有名な歌を残して、河内長野の弘川寺で亡くなった。
弘川寺
地元での土地争い、高野山での勢力争いで鳥羽に出身地が知れては、迷惑がかかると最後まで、出自を隠し通した。知らんけど。
日曜日は、粉河チャペルへどうぞ。
Posted by ちゃーちゃん at
13:53
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