2022年04月03日

西行が出身地を隠していたわけ

西行が自分の出身地が田中荘だということを隠していたのは、どういうわけだろうか。
実は、田中荘と隣の荒川荘との土地争いに原因がある。

西行は、北面の武士として鳥羽を守り、同時に可愛がってもらっていた。

ところが、この紀の川が氾濫するたびに、境界線があやふやになり、隣の荒川荘と土地争いが絶えなかった。当時、荒川荘は鳥羽の領地だったのである。このまま、荒川荘と争っていたら、鳥羽に弓を引くことになる。そこで、家督を弟の仲清に譲って、自分は出家して歌の世界に没頭したのである。だから、鳥羽に出身地を知られたらまずいので、出身地を隠していたと言われている。知らんけど。


実は、荒川荘は鳥羽領⇒美福門院領⇒高野山領となって、「高野山文書」に弟の仲清や甥の能清たちが荒川を押収したので、朝廷に訴えたことが書かれている。その名前から兄弟である「佐藤義清」(西行法師)が竹房出身であることが分かってきたのである。

ところが、西行は出家してもすぐに高野山へ行ったわけではなかった。10年ほどぶらぶらしていたのである。実は、高野山でも出身地を隠さねばならない事件が起こっていたのである。(続く)

日曜日は、粉河チャペルへどうぞ。
  


Posted by ちゃーちゃん at 20:56Comments(0)

2022年04月03日

西行の出身地


この写真を見ていただきたい。
手前に国道424号線竹房橋が見えていて、その向こうに竹藪がこんもりしていて、そこで紀の川が大きく蛇行しているのがわかるだろうか。

ここが、地元の方が「佐藤城址」と呼んでいるところである。神崎村が竹房となった所以である。



このあたりから縄文土器ややじり、弥生土器などがザクザク出る。堂坂遺跡と呼ばれている。
ここは、岩盤で紀の川がどんなに氾濫しようとも、削ることができなかった。ここに700年代に建てられた「一宮」という神社があり、現在は、東田中神社に合祀されている。

藤原秀郷の子孫がこのあたりに住み着いて、高野山中興の祖「明算上人」や「西行法師」が誕生したのである。


日曜日は、粉河チャペルへどうぞ。  


Posted by ちゃーちゃん at 08:34Comments(0)