2022年03月29日

西行の好きだった人は?

 西行は、ある人が好きだったが、一緒になれないのなら、いっそ出家してしまおう、となったそうである。それは、だれだろうか。

一般には、鳥羽天皇の奥さん待賢門院だったと言われている。その子供が崇徳天皇である。

しかし、崇徳天皇は、鳥羽の子ではなく、白河天皇の子だと言われている。なぜなら、待賢門院は、白河天皇のめかけだった。そして、身内の鳥羽に嫁いだ時には、お腹に赤ちゃんがいた。鳥羽も崇徳天皇を自分の子だと思っていなかった。


だから、この親子は政争に破れ、最後は四国へ島流しになる。

鳥羽には、もう一人の妻、美福門院がいた。

 
私は、この待賢門院より美福門院の方が西行の恋人だったのではないかと思うのである。


なぜなら、待賢門院とは17歳差、美福門院とは1歳差であった。

また、美福門院は、鳥羽が亡くなった後、自分の領地である荒川荘に来ている。そして、紀の川市高野(たかの)に「高野寺」を建てた。
美福門院の住む桃山町調月(つかつき)と高野寺と西行のいる高野山は一直線上に並ぶ。毎日、西行のことを思っていたに違いない。
そして、亡くなった後、夫の鳥羽のお墓に入らず、自分の骨を高野山へ届けてくれと遺言する。西行は、その骨を受け取ったに違いない。知らんけど。



桃山町元にある美福門院の墓。

ちなみに、荒川を「安楽川」と読み替えたのは、美福門院だと言われている。
死後に一緒になるというのは、何ともロマンティックである。
日曜日は、粉河チャペルへどうぞ。  


Posted by ちゃーちゃん at 17:00Comments(0)

2022年03月29日

西行法師の謎


 

西行法師について少し紹介したい。

本名 佐藤義清(さとうのりきよ)。平将門の乱を平定した藤原秀郷を祖とする。
その子孫が北へ行ったのが、平泉の中尊寺で有名な奥州藤原氏。
西へ来たのが田中荘や池田荘に住み着いた佐藤氏である。


代々、京都の官職(左衛門尉)についていたので、左(衛門尉)の藤(原)さんで、佐藤となった。

この銅像東500mの所に地元の方々が「佐藤城」と呼ぶところがある。


西行の最も有名な句は、「願わくは 花の下にて春死なん その如月の望月のころ」である。
私訳「できるなら、桜の木の下で、春の満月の頃に死にたいものだ。」


この「如月の望月の頃」というのは、仏陀が亡くなった日である。西行は、その日に死のうと断食をして、1日違いで亡くなったと言われている。知らんけど。河内長野の弘川寺で亡くなったことが分かっているが、竹房で生まれたことは、生涯隠し通した。

これからその謎を探っていきたい。(続く)

日曜日は、粉河チャペルへどうぞ。
  


Posted by ちゃーちゃん at 09:41Comments(0)