2022年02月05日
女学生遭難の碑
紀の川市竹房橋近くに「女学生遭難の碑」というものがある。

大正4年9月8日、2学期が始まった頃、粉河の女学校へ行く生徒たちがたくさん乗った渡しの舟。当時、橋がなかったので渡し舟で通行していたのだが、台風直後の増水で川は荒れていた。もう少しで対岸に着くというところで、舟が転覆し女学生9人が亡くなられた。

碑の後ろ側には、亡くなられた方々の名前が彫ってある。
その後、コンクリートの橋をどうしてもここに造ろうと、地元の羽端県会議員や山中村長が努力して、昭和2年に竹房橋が完成した。
和歌山市の「紀の川大橋」に次いで、2番目に架けられたコンクリートの橋だった。
それと同時に百合山88カ寺の再興がなされ、その後観光客が年に20万人ほどあったと記録にある。
明日は、粉河チャペルにて礼拝がございます。
大正4年9月8日、2学期が始まった頃、粉河の女学校へ行く生徒たちがたくさん乗った渡しの舟。当時、橋がなかったので渡し舟で通行していたのだが、台風直後の増水で川は荒れていた。もう少しで対岸に着くというところで、舟が転覆し女学生9人が亡くなられた。
碑の後ろ側には、亡くなられた方々の名前が彫ってある。
その後、コンクリートの橋をどうしてもここに造ろうと、地元の羽端県会議員や山中村長が努力して、昭和2年に竹房橋が完成した。
和歌山市の「紀の川大橋」に次いで、2番目に架けられたコンクリートの橋だった。
それと同時に百合山88カ寺の再興がなされ、その後観光客が年に20万人ほどあったと記録にある。
明日は、粉河チャペルにて礼拝がございます。
Posted by ちゃーちゃん at 05:49│Comments(2)
この記事へのコメント
粉河高等女学校の生徒の遭難についてカキコミ有難うございます。母は大正10年代にこの学校に通っていました。女学校には寮があって 桃山などの生徒も寮に入る人は いたけれど、お金が かかるので 船で通う御方も多かったそうです。毎日 渡し場まで 歩いて 船に乗って 対岸の粉河の船着き場からも そうとう歩いて 学校へ通っていた女学生には 夢を絶たれ まことに 御気の毒な遭難でした。
Posted by 伝兵衛
at 2022年02月09日 18:29

伝兵衛さん。お世話になります。
そうでしたか。大正時代に粉河の高等女学校に行ってたのですね。この頃は、皆さん徒歩で、紀の川は渡し舟だったそうです。
この遭難には、諸説あって男子学生が面白がって、舟を揺らしたという証言もあるそうです。本当にお気の毒な事故でした。
そうでしたか。大正時代に粉河の高等女学校に行ってたのですね。この頃は、皆さん徒歩で、紀の川は渡し舟だったそうです。
この遭難には、諸説あって男子学生が面白がって、舟を揺らしたという証言もあるそうです。本当にお気の毒な事故でした。
Posted by ちゃーちゃん
at 2022年02月12日 06:40
